大きな仕事を終え、すっきりした気持ちで迎えた連休明けの朝。眠気眼でiPhoneのアラームを止めると、母親からメールが届いていた。そこには、わたしの幼なじみの訃報が記してあった。その悲しい内容にしばらく頭が追いついてこなくて、もう一度目を閉じて、その人のことを深く深く思い出した。彼はわたしが生まれて初めて、「この人にはかなわない」と思った人だった。

幼稚園から一緒だった彼の家は医院をやっていて、父親はお医者さんだった。3人兄妹の真ん中で、クラスでの背の順はいつも一番前。ヨレヨレのTシャツを着て年中裸足で駆け回っているような人だった。

頭が良く、運動もできて、面白くて、人気があって、先生たちにも可愛がられていた。普通の優等生や人気者とは一味違う、「何か」を持った人だということは、小学生のわたしも薄々気づいていた。図工の時間には、誰もが思いつかないような個性的な作品を作っていたし、ディベートの時間には、あっと言わせるユニークな持論で誰をも納得させてしまうのだった。

わたしも割りと何でもできるタイプの小学生だったので、彼に対してひそかにライバル心を持っていた。ハードルはわたしの方が速い、でも作文では負けてしまう、でもリコーダーはわたしの方が上手い、でも理科の実験レポートでは負けてしまう。そんなことの繰り返しだった。

ただひとつ、圧倒的に負けていると思っていたのは絵を描くことだった。彼はとにかく絵が上手くて、どうしてこんな絵が描けるのだろうと悔しく思うこともあった。

わたしが小学校五年生のときの校長先生は俳句が好きな人で、毎週月曜の朝礼のときに、一句ずつ紹介解説してくれていた(ちなみにこの一年のおかげで、わたしは高校を卒業するまで国語のテストで俳句には困ったことがない)。辞められることがきまったときに、校長先生が紹介してくれた中からそれぞれ一人一句選んで絵に描いてプレゼントしよう、ということになった。

わたしが選んだのは、良寛の「散る桜 残る桜も 散る桜」という句だった。桜吹雪が風に舞って、川に桜の花びらがたくさん浮かんでいる絵を水彩絵の具で描いた。絵には自信がないけれど、これは我ながら上手く描けたと思っていた。先生に提出したあと、人づてに彼がわたしの絵を「これは上手いなぁ」と褒めていたことを知った。彼に絵を認められたことが、とてもとても嬉しかった。

その後わたしの絵と彼の絵が優秀賞的な感じで選ばれて、学内の掲示板に貼られることになった。わたしは急いでそれを見に行った。

彼が選んだのは、正岡子規の「薄月夜 花くちなしの 匂ひけり」という句で、まだ満開ではない八分咲きくらいの、まるで薔薇の花のように豊満なクチナシの花が描かれていた。こちらまで匂いそうな真っ白な花びらは、艷やかで今にも零れ落ちそうだった。わたしはその美しい絵を呆然と見ていた。そして同時に「ああ、この人にはかなわない」と思った。

わたしは中学から私立に行ってしまったので、小学校を卒業してからは彼と話をしたことがない。高校生のときに電車で見かけることはあったけど、言葉を交わしたことはなかった。

それから何年も経って、祖父の三年忌で実家近くのお寺を訪れたときに彼とばったり会った。若くして亡くなった彼の父親の年忌とちょうど同日に行われていたのだった。

「あれ、ひさしぶりー。」
「あ、そっか。お父様のか。今何やってるの?」
「東京の大学行ってるよー。」
「そっか。わたしは京都にいるよ。」
「へー、そっか。いつかみんなで飲みに行けたらいいね。」
「そうだね。みんなで会いたいね。」

最後の会話を思い出した後、恐る恐る彼の名前をFacebookで検索すると、満面の笑みで幼い娘を抱えている彼の写真があった。わたしは涙が止まらなくなった。いつの日か飲みに行って、あの時実はこう思っていた、という話をしてやりたかった。ずっと追いつけないまま、もう会うこともないまま、居なくなってしまうなんて許せなかった。

いつかの音楽発表会で、わたしのクラスはビートルズ・メドレーを演奏した。彼は指揮者で、わたしはピアノだった。先生から「指揮者なんだから、当日は一張羅を着て来い」と念を押されていて、兄から借りたというラルフ・ローレンのグレーのトレーナーに、ジーンズを履いてきた。
1曲目は”Let It Be”。彼とわたしが目配せをすると、彼がタクトを振り始めて、わたしが前奏を弾いて、他の楽器が鳴り出す。あの誇らしかった瞬間のことも、鮮明に思い出せるのに。

2015.08.18 追記
送り盆にお墓参りに行ったときのこと。彼の家のお墓は、わたしの家のお墓のすぐ向かいにあった。墓誌を確認してみたら、彼の名前が記してあった。ここに入っているなんて本当に信じられなくて目頭が熱くなったけど、とても素敵な法名を見てぴったりすぎて笑ってしまって、一息ついたあとやっぱり少し泣いた。