「おじいちゃんよりは絶対に長生きしたいの」
「なぜ?」
「だって、おじいちゃんが一人で洗濯物たたんでいる姿なんて、見てられない」

うちの祖父は2人とも既に他界していて、父方の祖父は随分間に亡くなり、祖母はかれこれもう10年以上、一人で暮らしているということになる。

昔、祖母が旅行で3日間家を空けたことがあって、祖父と2人で食事の用意をしていたときのこと。食事の用意といっても、おかずは全て母が用意するので、3日分の米を炊いてしまおうとしたのだ。祖父は計量カップを使わずに、自分のお茶碗に米を入れ始めた。3日分だから、と朝昼夜の9杯分を米袋からお茶碗たっぷりにすくい出した。1合、2合という単位がどのくらいのものなのか、幼くてよく理解できなかったわたしは、「お母さんもこういう測り方すればいいのになあ」と祖父の行動を見て思った。

そして炊き上がったご飯は、驚くほどの量になっていたのは言うまでもない。つまり祖父は、「米が膨らむ」ということすら知らなかったということだ。後で聞けば、米なんて自分では一度も炊いたことが無いと言っていた。

コンビニで、たまに祖母と同じくらいの年の女性を見かける。彼女たちは大抵、裏に書いてある成分表をこれでもかというくらい見ている。たぶん、添加物が入っているかとか賞味期限とかそういうものを確認しているのではなくて、ただ「これは何なのか」ということを知りたいのだと思う。その姿を見る度に、少し切なくなる。

祖母はコンビニに行ったことがない。 家から見えるくらい近くにあるのに、行かないと言う。最近は夜中まで起きて、昼過ぎに起き、仏壇に手を合わせ、食事を作り、テレビを見て、電話をし、日記を書いてから眠る。それをただ毎日繰り返している。「一人は気ままで最高、何をしてもいいんだから。おじいちゃんがいなくても大丈夫なのよ。」と言う。

悲しいことと新しいことを極端に恐れている。わたしが京都に帰るときは、悲しすぎるから挨拶をしないで行ってくれと言われている。迷惑をかけたくないからと、外出は年に一回、桜を見に行くだけになってしまった。

静かに、少しずつ閉じていく様を、悲しいとは思わない。愛おしいと思う。